「進化と暴走」内田亮子著 2021年4月10日 吉澤有介

いま読む!名著、ダーウィン「種の起源」を読み直す

現代書館、2020年1月刊

著者は、東京大学理学部卒、同大学院理学系研究科修士課程を修了して、ハーバード大学大学院で人類学を専攻しました。京都大学霊長類研究所、千葉大学を経て、現在は早稲田大学国際教養学部教授です。「人類はどのように進化したか」ほか多くの著書があります。

人間とは、どのような生き物なのでしょうか。高度な科学技術と、洗練された芸術文化がありながら、一方で個人や集団による残虐な行動が絶えません。同じ生き物がなぜこのような振る舞いをするのか。これは他の生き物と比較して、その歴史を知らなければなりません。

19世紀後半に、この人間についての科学的探究のヒントを与えてくれた「種の起源」は、今日でも価値ある科学書の古典として知られています。ダーウィンは、生命の起源そのものには触れていませんが、生命の存在の基本を示しました。すべての生物は、共通の祖先から徐々に変化して、その出現と分岐、存続、消滅のメカニズムは自然界にあるといいます。この生命観は、現代の生命科学でも揺らぐことはありません。ダーウィンは、さまざまな生物の「変異」を観察して「進化」を確信しましたが、「進化」という表現を注意深く避けました。「種の起源」では最終章の最後に一度だけ使っただけです。それでも当時はもちろん現代に至るまで、この「進化」は大きく誤解や曲解をされてきました。今日、この進化という言葉は一般的に進歩、改良、複雑化、高等化という価値観を伴うようになっているのです。

著者はそれらの科学者、思想家、政治家たちの人間観の歪について、丹念に検証しています。本来、価値とは無関係な生物学用語である進化が、人間の自然界での位置や、人間集団の関係性を語る際に、差別や偏見によって「崇高」にも「邪悪」にも使われてきたのです。

ダーウィンは、「種の起源」の中で、人間の存在について直接には語りませんでしたが、将来の生物科学の発展に大きな期待を寄せていました。ところが人類の自然との関係や心身の進化についての研究は、どの大学の生物学系部門でもごく限られ、人類学としても医学系、社会科学系ともに科学になり切れていません。人類は自然との闘いの産物とみることもできます。しかし、進化史上での人間の身体や心的能力や文明が、単純な自然選択の結果でないことも明らかです。産業革命以来、人間の知的活動は、自然界の一般的調和原則の領域を大きく外れてゆきました。善悪の価値観を超えた自制の効かない暴走が始まったのです

「生理学的暴走」では、肥満、高血糖、アルコールや薬物中毒。「象徴的暴走」としては、人間社会の集団所属の認識があります。言語の問題、所有、支配に依存の感情も含めて、思い込みが歪むとストーカー、陰湿ないじめや家庭内暴力が起こります。集団間の敵味方の認識で、自集団愛が高まり、「敵」に対する暴力行為がエスカレートしてゆきました。また、人間の文化は明らかに、不満の解消を目指す「エジソン的暴走」を推進力としていました。個人はもとより、集団の不満を解消する需要が蓄積されていったのです。暴走によって生まれた不都合を、別の暴走で対応する始末になりました。生物進化史上革命的な情報処理能力を獲得した人間は、人工知能AIを生み出しましたが、感情の理解まで進めるでしょうか。先進国の少子化なども、文化による生物の生存原則からは明らかに外れていました。「了」

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